ミハエル・ヴィットマン 武装SS大尉、剣付柏葉騎士十字章
2003年9月13日★ティーガー戦車、撃破王というとヴィットマンですね。何せプラモではフィギュア化までされていました。
タンクキラーとして名を馳せた彼が、その死までに撃破した敵戦車は138両とも言われています。これは戦車長の能力もさることながら、砲手によるところが大きいです。砲手はバルタザール・ボール。この人もよく戦車関連の本には名を出します。
ヴィットマンは大戦開始の1939年までにSS軍曹となり、ポーランドの電撃戦では装甲車の車長として従軍します。その翌年には西方進撃にも従軍しました。ソ連進攻では3号突撃砲で車長を務め、その冷静な判断力と勇敢さは部隊でも評判になるほどのものでした。早速41年の7月、第二級鉄十字章、二ヶ月後には第一級鉄十字章、それに加え戦車突撃章と戦傷章も授章します。初期の東部戦線の戦闘では、単独で敵戦車6両を撃破するという活躍もあります。42年7月に彼はSS士官学校に入学し、同年12月には少尉に任官して武装SSのアドルフ・ヒトラー師団に配属、最新型のティーガー戦車を受領しました。この戦車によってヴィットマンは最も輝かしい成功をつかむことになります。
43年7月、東部戦線で「史上最大の戦車戦」として名高いクルスク戦が展開。この戦闘にドイツ軍がくり出した戦車・自走砲は2700両余り、一方のソ連軍も3300両の戦車・自走砲をくり出しました。さて、プロホロフカで行われた戦車戦は未曾有の接近戦となります。従来なら遠距離から88ミリでT34を撃破できたのが、この戦闘では独ソ両軍入り乱れ、出会い頭に発砲、すれ違いざまに発砲という遭遇戦になってしまいました。ヴィットマンのティーガーは、この戦闘で初日に敵戦車8両、7門の火砲を撃破し、戦闘が終わるまでには30両の敵戦車と28門の火砲を撃破していました。しかし全体から見ると300両のソ連戦車を撃破したものの、SS装甲軍の損害も同数程度という痛手を受けており、この時のダメージが後々まで尾を引くことになります。その後の戦闘でもヴィットマンは着々と戦果をあげ、同年秋には1回の出撃で敵戦車10両破壊、記録を66両にまで伸ばしました。この功績により、翌年1月に騎士十字章を授章しますが、むしろ授章時期が遅すぎるという声まで出るくらい彼の活躍は目覚ましいものがありました。それから半月ほどで彼の撃破記録は88両になります。そして1月30日、柏葉騎士十字章を授章した彼はSS中尉へ昇進しました。そして2月前後に東部戦線で展開した「チェルカッシーの戦い(コルスン包囲戦)」では友軍救出のために敢闘し、負傷した前任者の代理として中隊長代理として部隊を指揮しました。この後、アドルフ・ヒトラー師団は東部戦線を離れ、ヴィットマンも新編成の第101SS重戦車大隊第二中隊長に任命されました。
1944年6月、連合軍はノルマンディに上陸。その1週間後、英第七機甲師団のクロムウェル戦車60両がカーンへの一本道を進撃していました。森の中に身を潜めていたヴィットマンの指揮する4台のティーガーと四号戦車1台は直ちに攻撃に移り、名砲手バルタザール・ボールの放った88ミリ弾は先頭と最後部のクロムウェルに命中し、それぞれを撃破します。残りの58両のクロムウェルは行き場を無くし、右往左往を繰り返すばかりでした。続く30分間の一方的な砲撃で、ヴィットマン率いる4台のティーガーは25両のクロムウェルを駆逐します。生き残った英戦車は、ほうほうの体で逃げ出すことが出来ました。第二次大戦を通じて最も目覚ましい戦車戦と評価される戦闘は、こうしてヴィットマンと彼の指揮するティーガーの一方的な勝利で終わったのです。しかし、この戦闘では彼のティーガーも英軍の対戦車砲の攻撃を受け被弾しましたが、搭乗員は全員無事に脱出しています。
6月21日、彼はSS大尉に昇進、25日には総統官邸で柏葉剣付き騎士十字章を贈られました。この時までに彼のあげた戦果は、敵戦車138両撃破、敵火砲132門撃破という偉大なものでした。
その後も彼はノルマンディ戦線に従軍しますが、8月8日、遂に運命の日がやってきました。この日、ヴィットマンはサントーに布陣するSS第12戦車師団「ヒトラーユーゲント」の側面援護を命じられます。彼の一行は激しい砲火に曝されますが、それを無傷でくぐり抜け、サントーを目指すシャーマン戦車の一群の前に立ちはだかりました。この戦闘でヴィットマンはシャーマンを3両まで破壊しますが、他の5両の十字砲火を受けた彼のティーガーは砲塔が吹き飛び撃破されてしまいました。搭乗員は全員戦死します。長い間、彼の遺体は付近に人知れず埋葬されていましたが、1983年、道路の拡張工事の際に発見され、正式の軍隊葬が執り行われた後、ラ・カンプの戦没者墓地へ埋葬されました。とさ
うちのWittmannさは最近、壊れかけてますが(何か?し
●で、これが何か? (DOM
★Wiさの名前の由来ダヨーw(し
タンクキラーとして名を馳せた彼が、その死までに撃破した敵戦車は138両とも言われています。これは戦車長の能力もさることながら、砲手によるところが大きいです。砲手はバルタザール・ボール。この人もよく戦車関連の本には名を出します。
ヴィットマンは大戦開始の1939年までにSS軍曹となり、ポーランドの電撃戦では装甲車の車長として従軍します。その翌年には西方進撃にも従軍しました。ソ連進攻では3号突撃砲で車長を務め、その冷静な判断力と勇敢さは部隊でも評判になるほどのものでした。早速41年の7月、第二級鉄十字章、二ヶ月後には第一級鉄十字章、それに加え戦車突撃章と戦傷章も授章します。初期の東部戦線の戦闘では、単独で敵戦車6両を撃破するという活躍もあります。42年7月に彼はSS士官学校に入学し、同年12月には少尉に任官して武装SSのアドルフ・ヒトラー師団に配属、最新型のティーガー戦車を受領しました。この戦車によってヴィットマンは最も輝かしい成功をつかむことになります。
43年7月、東部戦線で「史上最大の戦車戦」として名高いクルスク戦が展開。この戦闘にドイツ軍がくり出した戦車・自走砲は2700両余り、一方のソ連軍も3300両の戦車・自走砲をくり出しました。さて、プロホロフカで行われた戦車戦は未曾有の接近戦となります。従来なら遠距離から88ミリでT34を撃破できたのが、この戦闘では独ソ両軍入り乱れ、出会い頭に発砲、すれ違いざまに発砲という遭遇戦になってしまいました。ヴィットマンのティーガーは、この戦闘で初日に敵戦車8両、7門の火砲を撃破し、戦闘が終わるまでには30両の敵戦車と28門の火砲を撃破していました。しかし全体から見ると300両のソ連戦車を撃破したものの、SS装甲軍の損害も同数程度という痛手を受けており、この時のダメージが後々まで尾を引くことになります。その後の戦闘でもヴィットマンは着々と戦果をあげ、同年秋には1回の出撃で敵戦車10両破壊、記録を66両にまで伸ばしました。この功績により、翌年1月に騎士十字章を授章しますが、むしろ授章時期が遅すぎるという声まで出るくらい彼の活躍は目覚ましいものがありました。それから半月ほどで彼の撃破記録は88両になります。そして1月30日、柏葉騎士十字章を授章した彼はSS中尉へ昇進しました。そして2月前後に東部戦線で展開した「チェルカッシーの戦い(コルスン包囲戦)」では友軍救出のために敢闘し、負傷した前任者の代理として中隊長代理として部隊を指揮しました。この後、アドルフ・ヒトラー師団は東部戦線を離れ、ヴィットマンも新編成の第101SS重戦車大隊第二中隊長に任命されました。
1944年6月、連合軍はノルマンディに上陸。その1週間後、英第七機甲師団のクロムウェル戦車60両がカーンへの一本道を進撃していました。森の中に身を潜めていたヴィットマンの指揮する4台のティーガーと四号戦車1台は直ちに攻撃に移り、名砲手バルタザール・ボールの放った88ミリ弾は先頭と最後部のクロムウェルに命中し、それぞれを撃破します。残りの58両のクロムウェルは行き場を無くし、右往左往を繰り返すばかりでした。続く30分間の一方的な砲撃で、ヴィットマン率いる4台のティーガーは25両のクロムウェルを駆逐します。生き残った英戦車は、ほうほうの体で逃げ出すことが出来ました。第二次大戦を通じて最も目覚ましい戦車戦と評価される戦闘は、こうしてヴィットマンと彼の指揮するティーガーの一方的な勝利で終わったのです。しかし、この戦闘では彼のティーガーも英軍の対戦車砲の攻撃を受け被弾しましたが、搭乗員は全員無事に脱出しています。
6月21日、彼はSS大尉に昇進、25日には総統官邸で柏葉剣付き騎士十字章を贈られました。この時までに彼のあげた戦果は、敵戦車138両撃破、敵火砲132門撃破という偉大なものでした。
その後も彼はノルマンディ戦線に従軍しますが、8月8日、遂に運命の日がやってきました。この日、ヴィットマンはサントーに布陣するSS第12戦車師団「ヒトラーユーゲント」の側面援護を命じられます。彼の一行は激しい砲火に曝されますが、それを無傷でくぐり抜け、サントーを目指すシャーマン戦車の一群の前に立ちはだかりました。この戦闘でヴィットマンはシャーマンを3両まで破壊しますが、他の5両の十字砲火を受けた彼のティーガーは砲塔が吹き飛び撃破されてしまいました。搭乗員は全員戦死します。長い間、彼の遺体は付近に人知れず埋葬されていましたが、1983年、道路の拡張工事の際に発見され、正式の軍隊葬が執り行われた後、ラ・カンプの戦没者墓地へ埋葬されました。とさ
うちのWittmannさは最近、壊れかけてますが(何か?し
●で、これが何か? (DOM
★Wiさの名前の由来ダヨーw(し
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